

昭和20年8月15日は雲一つ無い快晴、暑い日でした。

前日には既に「重大ニュースがある・・・」とラジオで
知らせていました。
8月15日は朝から近所の人々も、そわそわしていた事を
思い出します。
正午になりその重大ニュースが発表されました。
昭和天皇の玉音放送(天皇陛下の終戦を告げる自らのお言葉)
を聞きました。
何故自宅で玉音放送を聞けたかといえば、母の具合が
余り良くないので、一学期終了と共に、疎開先から
呼び戻されていました。

祖父母、母、妹、弟等と玉音放送を聞きましたが
母は白っぽい和服からの再生した洋服を着ていました。
「ほろり、ほろり〜」と涙を流していました。

陛下の玉音放送の意味を、しっかり理解していたのは
母だけでした。

「もう、終わったのよ〜」と言って、一時張り詰めた
空気が流れました。祖父母は無言でした。
妹、弟は勿論記憶に有る筈のない年齢でしたから
無邪気なものでした。
町内には陸軍中将を勤めた職業軍人さんのお宅もあり
その日の玉音放送以来、ぱったりと、嫌味を言う事が
出来なくなりました。

と言うのも、父親は180cm、80kgの当時としては
大柄な人でしたが、近視と偏平足で甲種合格はならず
在郷軍人として訓練に励んでいました。

それでも戦局が激しくなり、とうとう役場の職員が
「召集令状」を届けに来ました。

「お前の息子も漸く召集令状が来たかい〜〜」と
陸軍中将殿の父親は皮肉交じりに祖父に言ったものでした。
出征の準備も整い覚悟を決めて職場での残務整理に
追われ続けました。

然しです、又、また役場の職員が「召集令状解除」の
紙を持って家へ来ました。

色々皮肉や、嫌味、妬み数々有りました。


市役所の人間が誰も居なくなる事を危惧しての
指揮系統からの指示でしたから、従うのみでした。
当時の指揮系統からの命令は絶対的な権威がありました。
8月15日を迎える迄大空襲を受けた市内の犠牲者の調査、
戸籍簿の整理、内地に残っても過酷な仕事の連続でした。
地方公務員として大変な重責を担った訳でした。
8月15日夕刻帰宅した父親は、妻の具合を気にしながら
「これで、空襲で逃げ回らなくて良くなった・・・」と
云ってました。
これからは、静養する様にと、話していた事を
思い出します。
何も無い夕食時、あの空襲警報のサイレンが
「もう、鳴らない・・・」と思う事が、中々
信じられませんでした。
何も無かった時代、和服の再生で作った洋服を着て
静かに玉音放送を聴いていた母親の姿が61年経った
今でも、私の心の中に住み続けています。

背筋を伸ばして読ませてもらいました^^
私も親が生きていた頃は戦争体験を聞いたことが
ありますが、いつも不思議だったのは
とても淡々と語ることでした。
聞いているこちらの方が泣きそうになるくらいの
ことなのに。。。
当時の人々にとって考えるのはその日を生きていくことだけで必死で、
様々な感情を封じ込めてしまっていたのですね、きっと。
お母様はこのあとですか。。。空襲などでなくて
よかったですが、戦争がなかったらと
悔やまれますね。