川柳の講師として3年以上同じ講師の先生から色々「作句」について
苦労話を聞かせて頂いています。
私達が「川柳」の作句に取り組む場合、平凡で単に言葉を並べただけの
事になりがちです。
それでも「5.7.5」の17文字に苦戦をしながら取り組んでいますが
当然の事ですが何時も「没」の講評が続きます。



今年も咲き出したクレマチス。↓↓↓
006-r_500



先生は作句に当たりご自分のご家族の事についてその言葉を
織り込む時「何度も奥様を殺したか判らない」と仰います。
出尽くした作品の中で、自分なりの目新しい表現をしたいと思えば
奥さんを「病死」した事にしたり色々な場合が有るそうです。
実際ではそんなに何度も病死されたり、別れが有ったりはしないのですが
作品を創作する上で「病死」や「大怪我」などはフィクションとして盛り込んでも
構わないそうです。

作句でも何でもありません、何時もの固定電話への電話です。
学生時代に何処かで住所録に記したのでしょう。
息子を電話口へ「出して欲しい、奥様でも構いません」と言い出しました。
禄でもない内容の事柄の電話だと思い、川柳の先生の「作句」では
有りませんが「息子はもう、居ませんから・・・」と伝えました。
相手は「居ませんから・・・」と言う言葉をどのように解釈したかは
判りませんが「あっ、大変失礼しました」と言って電話を切りました。

私は「もう居ませんから・・・」と言ったのですが相手は「亡くなった」とでも
解釈したのでしょうか。
それで、電話の相手をするまでも無く僅かな時間で電話は終わりました。
「もう、居ませんから」と言う言葉は如何様にも解釈が出来る言葉です。
言葉の上で息子を「殺した」訳でも有りませんし、電話の取次ぎを
拒否する時には、暫くはこの言葉で通せそうな気がしました。

古い住所録が何時までも使われる事が不思議な気がします。
ふと、川柳の先生の「何度殺したか判らない・・・」と言う言葉を思い出し
「言葉は遣い様かな?」とも感じました。
その点次男は何処にも住所録らしい物を残して居ないのか、次男には
電話は掛かりません。
これも不思議な事です。





8893c0ab.gif