第二次世界大戦を知らない人達が80%弱になったそうです。
そんな中毎年8月15日はやって来ます。
夫は自宅が焼け落ちる前、焼夷弾の投下される中、一人で
必死になって、逃げ回った事を感慨深く時々話します。
夫は昭和20年8月15日、旧制中学の2年生でした。
既に名古屋市内中心部に在った自宅は焼け落ちていました。
遡り昭和20年2月には父親が「風邪」が原因で亡くなっていました。
止むを得ず母方の実家に身を寄せ、岐阜県下の中学に
通学していたとの事です。
2年生の授業は5月迄、6月から8月上旬迄学徒動員として
長良川鉄橋が万が一爆破された時の事を想定して作業に従事ました。
鉄橋が爆破されたら東海道線は瞬時に列車は通れなくなってしまいます。
夫達は朝、或る駅で下車すると陸軍の兵隊さんが待っておりました。
そこで、一日入隊をし、新しい鉄橋架替に合わせ線路下の
路盤工事を行ったそうです。
同級生二人一組となり土砂をモッコに入れ担ぎ、工事現場まで
運搬する事を一日中繰り返したそうです。
因みに夫達より上級生達は軍需工場で働いていたとの事です。
生きて来た年月、それぞれの8月15日が有る事を
今更ながら強く感じます。
8月15日前日、即ち8月14日学校に保管されていた鉄砲を担いで
岐阜市の「水道山」へ運ぶ事を伝えられ、指示に従って
当日は(15日)山の中腹へ持って行くと、兵隊さんが待っており
持って来た「銃」を受け取り更に上の方へ持って行ったそうです。
夫達は水道山の中腹に有る
自動車学校の広場へ全員集合させられ
12時からの玉音放送を聴いたそうです。
然し、雑音が酷く殆ど聞き取れなかった
との事です。
帰途、新岐阜駅で『終戦』した事を
知ったそうです。
終戦記念日、多くの犠牲者の御霊に白い花を手向けます。
但し、自分の写真の在庫からです。
燃えよドラゴンズ!!
そんな中毎年8月15日はやって来ます。
夫は自宅が焼け落ちる前、焼夷弾の投下される中、一人で
必死になって、逃げ回った事を感慨深く時々話します。
夫は昭和20年8月15日、旧制中学の2年生でした。
既に名古屋市内中心部に在った自宅は焼け落ちていました。
遡り昭和20年2月には父親が「風邪」が原因で亡くなっていました。
止むを得ず母方の実家に身を寄せ、岐阜県下の中学に
通学していたとの事です。
2年生の授業は5月迄、6月から8月上旬迄学徒動員として
長良川鉄橋が万が一爆破された時の事を想定して作業に従事ました。
鉄橋が爆破されたら東海道線は瞬時に列車は通れなくなってしまいます。
夫達は朝、或る駅で下車すると陸軍の兵隊さんが待っておりました。
そこで、一日入隊をし、新しい鉄橋架替に合わせ線路下の
路盤工事を行ったそうです。
同級生二人一組となり土砂をモッコに入れ担ぎ、工事現場まで
運搬する事を一日中繰り返したそうです。
因みに夫達より上級生達は軍需工場で働いていたとの事です。
生きて来た年月、それぞれの8月15日が有る事を
今更ながら強く感じます。
8月15日前日、即ち8月14日学校に保管されていた鉄砲を担いで
岐阜市の「水道山」へ運ぶ事を伝えられ、指示に従って
当日は(15日)山の中腹へ持って行くと、兵隊さんが待っており
持って来た「銃」を受け取り更に上の方へ持って行ったそうです。
夫達は水道山の中腹に有る
自動車学校の広場へ全員集合させられ
12時からの玉音放送を聴いたそうです。
然し、雑音が酷く殆ど聞き取れなかった
との事です。
帰途、新岐阜駅で『終戦』した事を
知ったそうです。
終戦記念日、多くの犠牲者の御霊に白い花を手向けます。
但し、自分の写真の在庫からです。
燃えよドラゴンズ!!